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暇と退屈の倫理学 / 個人的備忘録

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

 

 

「暇」という状態が嫌いだった。自分が「暇」であると認めることがどうしてもできなかった。

まるで自由な時間を与えられたにも関わらず、それを自分ではうまく処理できなくて、満足感を満たしてくれる外的要因をただ待っているような気になるからだ。

「そんなことされなくとも、自分で自分の時間を満たしてやる」という反発心から「暇」という状態であることを認めることに強い抵抗感を持っていた。

「暇」であることに一種の恐怖感に似たものさえ感じていたのかもしれない。

本書はこの得体のしれない「暇」という状態についての理解を少しだけ深めてくれた。

 

以下は個人的に気になったところのメモであり、本書全体の要約ではないので注意していただきたい。また個人的な解釈が多分に含まれる。

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自分が感じていたこの「暇」に対する強迫観念のような感情は第4章「暇と退屈の疎外論」で説明された。

現在では労働までもが消費の対象になっている。どういうことかと言うと、労働はいまや、忙しさという価値を消費する行為になっているというのだ。「一日に15時間も働くことが自分の義務だと考えている社長や重役たちのわざとらしい「忙しさ」がいい例である」。

...

労働が消費されるようになると、今度は労働外の時間、つまり余暇も消費の対象となる。自分が余暇においてまっとうな意味や観念を消費していることを示さなければならないのである。「自分は生産的労働に拘束されてなんかないぞ」。「余暇を自由にできるのだぞ」。そういった証拠を提示することをだれもが催促されている。

だから余暇はもはや活動が停止する時間ではない。それは非生産的活動を消費する時間である。

P.158~159

自分はまさに非生産的活動を消費しようと必死になっていたのだろう。「有意義な」余暇、「クリエイティブな」余暇にあこがれていた。それらの活動を通じて「自分らしさ」を作り上げようと考えていた。

しかし自分にとってこれは暇な状態への強迫観念の説明にはなるが、解決策にはなりそうになかった。

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著者は本書でハイデガーの退屈論を大きく取り上げて、それらを拡張することで著者の主張が述べられた。まずハイデガーは以下の3つの形式で退屈を分類した。

退屈の第一形式:何かによって退屈させられること

退屈の第二形式:何かに際して退屈すること

退屈の第三形式:「なんとなく退屈だ」という状態

第一形式の例としては、駅のホームで列車を待っている場面があげられた。これは一番想像しやすい、「やることがなくて暇」というような状態だ。

第二形式の例としては、パーティを楽しんだけれども退屈した、というシチュエーションがあげられた。これは自分が退屈な人間だったから退屈したわけでも、時間を無駄にしてしまったという感覚から退屈だったという意味でもない。パーティ自体が気晴らしであり、退屈を紛らわす行為であったということだ。

第三形式は最も深い退屈として扱われている。具体的な例はないが、個人的には突然こみ上げてくる「虚無感」のようなものだと解釈した。

ハイデガーは、人間は自由であるからこそ退屈し、「決断」することで自由を発揮することができるとした。しかし著者は「決断」することは、退屈がもたらす苦しさから逃避し、「心地よい奴隷状態」になるだけだとして否定した。

そして著者は第一形式と第三形式の関係性を指摘した。人はなぜ駅で待たされると退屈を感じるのか、それは突き詰めると時間を無駄にしたくない、日々の仕事のために使いたい、と感じるからである。(この場合の仕事とは労働以外の余暇の時間も含まれると思われる。)そう感じる理由は人が「日々の仕事の奴隷」だからであり、人が進んでこの奴隷状態になりたがるのは、「なんとなく退屈だ」という深い退屈から逃げるためだと指摘した。つまり人は第三形式の退屈を避けるために「日々の仕事の奴隷」になり、その結果第一形式の退屈が生まれるのである。

 

著者の最終的な結論はこう書かれている

楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができるようになる。<人間であること>を楽しむことで、<動物になること>を待ち構えることができるようになる。これが本書『暇と退屈の倫理学』の結論だ。

P.367

これをすごーく大まかに以下のように解釈した。

「もっと楽しんで、もっと夢中になろう」

説明すると、「退屈することを運命付けられた人間的な生」と本書でも書かれている通り、人は「退屈との共存を余儀なくされ」ている。つまり退屈を根本的に解決することはできない。 

そこで著者は日常的な楽しみをより深く享受できるように訓練し、何かに思考を奪われる場面を増やそう、と提案した。人は退屈を紛らわす気晴らしとは一生付き合っていくことになる。しかしそれらのものをより深く楽しむことで、単なる気晴らしとしての行為より多くの発見を得ることができ、それは「思考を強制するもの」を受け取る力を強化することにつながる。「思考を強制」されているとき、人は思考の対象によってとりさらわれ、「なんとなく退屈だ」と感じる隙がなくなる。

(「思考を強制するもの」の例として、食べることを楽しんでいる人は、何かを食べたとき、それが何でできていて、どうすれば美味しくできるのか、などを無意識に考えてしまう、というような具合だ)

本書の中で著者も書いているが、この結論だけを見ても人生における退屈のあり方を革新的に変えるような結論ではない。しかし本書を一から読んでこの結論にたどり着いたなら、この結論の必然性がわかるようになる。目新しさこそないが、この結論の論理的な根拠を理解している分、この結論を自分の人生に当てはめやすくなると思う。